私家版・心理学の本棚

じょー、本を読んでいろいろ書くことを決意。

『ぼくは物覚えが悪い:健忘症患者H・Mの生涯』(スザンヌ・コーキン)

『ぼくは物覚えが悪い:健忘症患者H・Mの生涯』

スザンヌ・コーキン(著) 鍛原多恵子(訳) 早川書房 2014年

ぼくは物覚えが悪い:健忘症患者H・Mの生涯

ぼくは物覚えが悪い:健忘症患者H・Mの生涯

 

 「心理学」という講義で教科書が指定されている場合、だいたいその教科書には「記憶」という章があり、その本文かコラムにおいて、「脳の損傷で長期記憶を失ったHM」が紹介されています。

『ぼくは物覚えが悪い:健忘症患者H・Mの生涯』は、その、HMについての本です。

生前は本名が公開されていませんでしたが、死後、新聞の死亡記事で本名が公開されました。名前は、ヘンリー・グスタフ・モレゾン(Henry Gustav Molaison)といいます。

HM (患者) - Wikipedia

MIT150 Exhibition Nomination (←写真が見れます。)

本書は、HMを最も長く研究した研究者であるスザンヌ・コーキンのおそらくは最後の仕事です。

Suzanne Corkin - Wikipedia

読み終わってから検索して知ったのですが、原書が2013年に刊行され、日本語訳が2014年に刊行されているわけですが、スザンヌ・コーキンは2016年に79歳で亡くなったとのことです。ヘンリー・モレゾンが2008年に82歳(かな?)で亡くなったことを考えると、スザンヌ・コーキンは、それこそ一生をかけてヘンリーを研究していたことになります。

ちなみに、スザンヌ・コーキンはHMの研究をしていた研究室に入った関係でHMの研究をし続けることになったのですが、その指導教員はブレンダ・ミルナーという人で、なんと、まだ生きています。2018年現在、99歳だそうです。(6月の誕生日で100歳になる模様…!)ブレンダ・ミルナーは途中で研究上の興味が他に移ったようで、HMの研究には初期に関わっただけのようです。

Brenda Milner - Wikipedia

しかし、HM存命時点で、ブレンダ・ミルナー>HM>スザンヌ・コーキンという年齢順だったわけですが、最年長者が一番長生きとは…。寿命って、ほんとうに神のみぞ知るの世界だな、と思います。

 

さて、本書ですが、主な内容は(1)ヘンリーの思い出話と(2)ヘンリーの研究からわかったことの解説です。前半と後半は(1)に関する内容の割合が多めで、真ん中あたりの章は(2)の内容が多めです。

当然ですが、HMは教科書のコラムになるために生まれてきたわけではなく、あくまでも、施術当時には予見できなかった手術の失敗によって記憶機能の一部を喪失した障害者です。ですので、私は素朴に「記憶がなくてどうやって生活しているんだろう?」とか、「仕事とかできないと思うけど、生活費はどうなってるんだろう?」とか、大学の教科書のコラムでHMのことを知ったときに思いました。思い出話の中には、障害者のための作業施設に通っていたことがあるとか、アメリカの障害者用の福祉制度を活用していたとか、そういうことも書いてあって、私の長年の疑問に答えてくれる内容でした。他にも、家族や親戚のこと、施設での暮らしぶり、実験に参加した際にこんなふうなことを言っていた、というようなことも存分に紹介されています。

研究については結構骨太で、脳のことを体系立てて勉強してこなかった私にはやや難しめだったのですが、検索しながらなんとか読みこなしました。心理学の実験手法も各種紹介されていて、そちらもなかなか難しめだったので、大学1年生で読むのはちょっと難しいかもしれません。プライミングとか条件づけとかのちょっと細かい分類まで先に勉強してからなら読めると思います。

基本的には、スザンヌ・コーキンとHMの出会いを起点として、時系列に沿って章が展開されていきます。なので、最後にはHMが死んでしまいます。スザンヌ・コーキンは研究時以外にもHMの生活について一知人として関わっていくのですが、一方でやはり研究者でもあり、HMが死亡する数年前からHMの死後の脳保存に向けて計画を整えていき、HMが死亡するとすぐさま脳の保存に取り掛かります。その様子がとてもマッド。50年近く共に過ごした相手を失ったあと、「泣いてる暇はない」とばかりにガンガンことを進め、HMの脳を取り出します。(※本人は外科医じゃないので、実務はほかの人。)研究者としてのアイデンティティと、友人を失った人間としての感情の混ざった感じがとてもマッドで、読みながら、「おおう…」と声が出てしまいました。

ある意味で、「一人の人間が人間一個体をずっと研究対象にするのは難しい」ということを知ってしまうような本です。マウスやラットやウミウシは、やはり人間よりずっと寿命が短いし、言葉が通じないから実験動物にしてもなんとか研究者の心が持つけれども、人間を対象にすると心のバランスが取れないのじゃないかと思います。そのマッドな心情に触れられるのも、この本の特徴かもしれません。

英語版のハードカバーのデザインは、そんなスザンヌ・コーキンの気持ちを反映するようなデザインになっています。海馬損傷後のヘンリーがいきいきと思い出せた2つの思い出のうちの1つである、「少年のころの飛行機搭乗体験」をイメージした写真でしょうね。友人としてヘンリーの生涯や世界への貢献について、いろいろな人に知ってほしいという人間的な気持ちが伝わるようなデザインです。日本語版のカバーデザインも私は好きですが、英語版のハードカバーのデザインも、読了したいま、意味がわかるだけに素敵だなと思います。

Permanent Present Tense: The Unforgettable Life of the Amnesic Patient, H. M.

Permanent Present Tense: The Unforgettable Life of the Amnesic Patient, H. M.

 

スザンヌ・コーキンがヘンリーの葬儀で読んだ弔辞の最後の一文、「皮肉なことではありますが、彼が忘れ去られる日は永久に訪れないでしょう」、この言葉を理解するために、本書はあるのだと思いました。大変おすすめの1冊です。

 

ちなみに、次に時間ができたらこれを読みたいなと思っています。ハーロウについての本。こちらも楽しみです。

 

『愛を科学で測った男』

デボラ・ブラム(著) 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) 

愛を科学で測った男―異端の心理学者ハリー・ハーロウとサル実験の真実

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